いつもは若手プレイヤーの紹介をしていますが、今回は趣向を変えております。
よく知っているレジェンド選手でも、よくよく考えてみたらどこのチームにいたのか?どのタイミングから選手として頭角を現して来たのか?よく分からないってことありますよね。
ということであらためてレジェンド選手のことについて調べることにしました。
記念すべき1人目は内田篤人さんです!
プレーだけではなく、甘いマスクと独特の雰囲気でサッカーファン以外も魅了し続ける内田さん。
個人的にDAZNで見てあらためてファンになったのでまとめたくなりました(笑)
wiki風プロフィール
名前:内田篤人(うちだあつと)
生年月日(年齢):1988/3/27(33歳) ※2021年8月時点
ポジション:右SB
利き足:右足
出身地:静岡県
ユースor高体連:高体連(清水東高校)
過去所属チーム:鹿島アントラーズ、FCシャルケ04、ウニオン・ベルリン
日本代表歴:U16~23、A代表
経歴
プロ入り前
神奈川県に近い静岡県田方郡で生まれ育った内田さんは、中学時代までは特に目立った選手ではなく、高校はサッカー強豪校を希望していたものの、将来のことを考えて大学進学も目指せる進学校へと進むことにしました。
その結果、元日本代表武田修宏さんや現FC東京監督の長谷川健太さんなどを輩出した清水東高校を選びます。
当時は教員になりたいという目標があったそうで、早大進学の可能性もあったそうです。
当初はセンターフォワードなどの攻撃的なポジションでプレーしていましたが、他校に対策されたことをきっかけにサイドバックへと転向したそうです。
そんな内田さんの運命を変えたのは、AFC U-16に向けて早生まれを対象にしたセレクションです。
そこでスピードが関係者の目に留まり、そこからとんとん拍子に世代別日本代表に選ばれ、プロ注目選手へと成長します。
最終的には7-8クラブから声がかかる中、鹿島アントラーズを選択しました。
鹿島アントラーズ(前期)
引用:https://www.goal.com/jp/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9/jleague-kashima-uchida-atsuto-20200821/1ge2thly5y0pm1lpmpcfcim446
鹿島入団後は、パウロ・アウトゥリオ監督にその能力を高く評価され、クラブ史上初となる高卒ルーキーでの開幕スタメン出場を果たし、ドリブルから先制点となるPKを獲得するなど左側活躍します。
その後第4節でさっそくクラブ史上最年少得点を記録するなど、1年目からリーグ戦28試合出場し2ゴールをあげるなど、高卒1年目とは思えない活躍ぶりをみせ、2年目には伝統の背番号2を名良橋から受け継ぐなどあっという間にチームの中心選手に。
その2年目から鹿島はリーグ3連覇の偉業を達成し、内田さん自身も2008年と2009年はJリーグベストイレブンに輝くなど日本を代表する選手へと一気に成長しました。
また世代別日本代表の中心選手としても活躍し、U-20ワールドカップや北京オリンピックに出場しています。
2008年1月にはチリ戦でA代表デビューも飾っており、順風満帆なサッカー人生を歩んでいました。
しかし、2010年に行われたワールドカップ南アフリカ大会では、直前でレギュラーから外れ、まさかの出番なしという悔しい結果となりました。
FCシャルケ04
引用:https://www.football-zone.net/archives/222369
2010年7月1日に、移籍金推定1億5000万円でドイツ・ブンデスリーガのシャルケ04へと移籍することが発表されました。
当時、セリエAのローマやオーストリア1部ウィーンからもオファーがあったとのことですが、チャンピオンズリーグへの出場が可能だったこともありシャルケを選択したようです。
1年目(2010-11年)
負傷の影響もありましたが、秋ごろには右サイドバックのレギュラーに定着。
チャンピオンズリーグにも出場し、グループリーグ第5節リヨン戦でアシストを記録するなど活躍を見せ、そのまま決勝トーナメント進出を果たします。
そして、準々決勝では長友佑都選手が所属するインテルと対戦して勝利をおさめ、クラブ史上初となるCLベスト4進出に大きく貢献しました。
また、DFBポカール(ドイツカップ戦)で優勝し、移籍初年度でタイトルを獲得しており、さっそくチームの中心選手となりました。
2年目(2011-12年)
怪我や新加入選手の影響もあり、前半戦は定位置を失いましたが、後半はレギュラーを奪い返し、リーグ戦3位に貢献しました。
3年目(2012-13年)
3年目も開幕時は少し出遅れましたが、すぐにレギュラーに定着。
第10節のホッフェンハイム戦ではブンデスリーガ初ゴールを記録するなど、好調なチームの中でもその勢いは衰えず、右サイドでコンビを組んでいたファルファンとのプレーはチームの武器になっていました。
また、ブンデスリーガ英語版公式HPにて、2012年のベストイレブンに選ばれ、最終的に2012-13のベストイレブンにも選出されるなど、リーグの中心選手へと成長しました。
4年目(2013-14年)
開幕からレギュラーとしてチームを引っ張っていましたが、年明けに右太ももを痛めて戦線離脱し、その後シーズン内に復帰はできずリーグ戦を終えました。
しかし前半戦は負傷はありながらも活躍をみせ、ブンデスリーガ公式サイトのベストサイドバックにも選出されていました。
また日本代表としてはワールドカップブラジル大会のメンバーに選出され、予選3試合に出場しましたが、グループリーグ敗退という悔しい結果となりました。
5年目(2014-15年)
怪我もありながら、レギュラーとしてプレー。
しかし年明けにまたしても膝を負傷して離脱し、オフに右ひざの手術を行いました。
ドイツでの過酷なシーズンに加えて、日本代表でのプレーが重なり、内田さんの体はぼろぼろになっていたようです。
6~8年目(2015-16、2016-17、2017-18年)
6年目はリハビリに励み、初の公式戦無出場となりました。
7年目には、ヨーロッパリーグにて1年9か月ぶりの出場を果たしましたが、その後リーグ戦での出番はなく、この試合がシャルケでの最後の試合となってしまいました。
ウニオン・ベルリン
引用:https://www.soccer-king.jp/news/world/ger/20170824/632301.html
怪我の影響もあり、シャルケで満足にプレーすることができなかったことを受け、2017年8月21日に当時ドイツ2部に所属していたウニオン・ベルリンへと完全移籍を果たしました。
第5節のデュッセルドルフ戦では、宇佐美貴史選手(ガンバ大阪)との日本人対決が行われ、その後のザントハウゼン戦では約2年半ぶりにフル出場を果たすなど復調の兆しが見えた矢先、今度は左太ももの肉離れを負いました。
怪我の影響もあり、ライバルとのポジション争いにも敗れ、結局公式戦出場は2試合のみとなり、内田さんのドイツ生活は幕を閉じることになりました。
鹿島アントラーズ(後期)
引用:https://news.yahoo.co.jp/articles/00f9f304e64636f3dd5a11841641dd057dfdf396
2018年1月2日に鹿島アントラーズへの復帰が発表されました。
2月25日の開幕戦で約8年ぶりにリーグへと戻り、リーグ戦に加えてACLにも出場。
準決勝ファーストレグの水原三星戦では移籍後初得点となる逆転ゴールをあげるなど、さっそくチームを引っ張りますが、その後西大伍選手とのポジション争いに敗れ、また怪我の影響もあり、なかなか試合に出ることが少なくなりました。
そして、2020年8月20日にその年限りでの現役引退を発表しました。
まだ32歳という若さにも関わらずその決断をした理由をこのように語っています。
「鹿島アントラーズというチームは数多くのタイトルを獲った裏で、多くの先輩方が選手生命を削りながら、勝つために日々努力をしてきた姿を僕は見てきました。僕はその姿を今の後輩に見せることができない、日々練習していく中で、身体が戻らないことを実感し、このような気持ちを抱えながら鹿島でプレーすることは違うんじゃないかと、サッカー選手として終わったんだなと、考えるようになりました」
引用:https://www.soccer-king.jp/news/japan/jl/20200823/1110989.html
サッカー選手として満足にプレーできないこと、また主将としての責任感からこのような決断をしたんですね。
引退後
引用:https://web.gekisaka.jp/news/detail/?312305-312305-fl
ロールモデルコーチに就任し、U-19日本代表のコーチを務める傍ら、報道ステーションのキャスターやDAZNの「内田篤人のフットボールタイム」のMCなどTV番組でも活躍をしています。
五輪期間中も選手のインタビューを行うなど、引退後の方がメディアに出る機会が多いように思えますね(笑)
プレースタイル・特徴
元々攻撃的なポジションでプレーしていたこともあり、クロスなどの攻撃的な能力が高く、またスピードも兼ね備えているため、DFは守るだけだという私のような素人の先入観を覆した選手でもありました。
また、人間性にも特徴があります(笑)
非常にマイペースでかなり独特な人だということがわかります。
プロサッカー選手なのに、海外サッカーに疎くシャルケに移籍が決まるときも、シャルケのことを知らなかったり、海外移籍をするにあたり普通は言語を気にするところですが、言葉なんかわからなくてもプレーで自分を証明すればいいとほとんど言葉を覚えなかったりと、エピソードも豊富です(笑)
ではそんな内田選手の映像を、なんとシャルケの公式がYOUTUBEにアップしているのでそちらをご紹介します。
如何にチームから愛されていたのかということがわかりますね。
成績
2006年
28試合出場2ゴール(J1 鹿島アントラーズ)
2007年
31試合出場(J1 鹿島アントラーズ)
2008年
25試合出場1ゴール1アシスト(J1 鹿島アントラーズ)
2009年
31試合出場3アシスト(J1 鹿島アントラーズ)
2010年
9試合出場1アシスト(J1 鹿島アントラーズ)
2010-11年
26試合出場3アシスト(ドイツ1部 シャルケ)
11試合出場1アシスト(チャンピオンズリーグ)
2011-12年
18試合出場2アシスト(ドイツ1部 シャルケ)
8試合出場1アシスト(ヨーロッパリーグ)
2012-13年
24試合出場1ゴール2アシスト(ドイツ1部 シャルケ)
5試合出場1アシスト(チャンピオンズリーグ)
2013-14年
17試合出場4アシスト(ドイツ1部 シャルケ)
8試合出場1ゴール1アシスト(チャンピオンズリーグ(予選含む))
2014-15年
19試合出場3アシスト(ドイツ1部 シャルケ)
7試合出場(チャンピオンズリーグ)
2016-17年
1試合出場(ヨーロッパリーグ)
2017-18年
2試合出場1アシスト(ドイツ2部 ウニオン・ベルリン)
2018年
12試合出場2アシスト(J1 鹿島アントラーズ)
2019年
10試合出場1アシスト(J1 鹿島アントラーズ)
2020年
2試合出場(J1 鹿島アントラーズ)
今後の動向
我々として期待するのは、「監督・内田篤人」の誕生ではないでしょうか。
しかし、日本のライセンス上その道は険しいです。
現在ロールモデルコーチという形でアンダー世代の指導にあたっていますが、これは指導者ライセンスを持たずに指導ができるように新設された特別措置です。
ただ、今後日本の指導者として最高位のS級ライセンスを取得しようとすると、約10年ほどかかるのです。
その点について以前本田圭佑選手も疑問を呈していましたね。
個人的にも、選手として実績があればある程度緩和してなるべく早く監督として経験を積むことができるような仕組みがあればいいのになと思いますが、今後どうなるのか。
なんにせよ、日本サッカーにとって内田篤人さんは貴重な人材のため、早く今後の育成に本格的にかかわってほしいですね!